和久わく涌く

一涌浦 但往古異国より猛虎責来候節、神功皇后此浦ニて毒酒を作り給ふ時、其毒酒立待チ能涌立申たる由、其いんゑんニて涌浦と申ならわしたる由申伝候事(『地下上申』豊浦郡中神田村)

おはようございます。山田です。今日の道の駅豊北周辺のお天気は今ひとつ…明日(1/20)から大寒、来週は寒くなるようなので、車や水道の備えが必要かもしれません。ご安全に!

道の駅豊北がある地区は、下関市豊北町神田上和久。和久は「わく」と読みます。道の駅豊北のレストランわくわく亭は、和久という地名から。展望テラスから望む漁港は、和久漁港。今回の冒頭は、その和久の地名の由来です。

道の駅豊北展望テラスから和久漁港

(ひとつ)涌浦(わくうら) 但往古異国より猛虎(もうこ)責来候節、神功皇后(じんぐうこうごう)此浦ニて毒酒を作り給ふ時、其毒酒立待チ(たちまち)(よく)涌立(わきたち)申たる由、其いんゑん(因縁)ニて涌(わく)浦と申ならわしたる由申伝候事(『地下上申』豊浦郡中神田村)

一 涌(和久)浦のこと。その昔、外国からモウコ(蒙古)が攻めて来た時、神功皇后がこの浦で(モウコに飲ませてやっつける)毒酒をつくられました。その時、毒酒がたちまち良く沸き立ったので、そこから地名を涌(和久)浦というようになったと言い伝えられています。

和久浦夕景

『地下上申』は、18世紀半ばの江戸時代、山口県域を支配していた毛利家により集められた村勢概要、現代なら国勢調査です。長門・周防の両国諸郡の萩本藩領はもとより、各支藩領もこめて、各村落から萩藩府の絵図方頭人・井上武兵衛宛に上申されたもの。

村内の地名や古跡・古城趾などについての伝承を簡単に記述していて、後年の『風土注進案』にも類似の記述があります。山口県の場合、地名の由来伝承は、多くがこれら江戸時代の地誌に拠るものです。

「猛虎(もうこ)」は虎ではなくて、「蒙古(もうこ)」を別の漢字で書いたもの。蒙古というと、鎌倉時代の蒙古襲来つまりモンゴル帝国のことだと思ってしまいそうですが、江戸時代頃には、海の向こうから攻めて来る外国勢のことをまとめて「蒙古」と呼びならわしていたようです。

神功皇后は、仲哀天皇のお后で、応神天皇の母。攻めて来た外国勢と戦ったとされ、下関市や福岡県にはゆかりの地がたくさんあり、豊北町域にもいろいろな伝説があります。

さて、道の駅豊北の隣には、下関市指定史跡「和久古墳」があります。6世紀後半(古墳時代後期)に築かれたもので、古墳と認識される前は、石積みの竈(かまど)に似ていることから「鬼のカマド」と呼ばれていたそう。砂岩や礫岩、凝灰岩などの堆積岩を左右対称に積み上げた横穴式石室で、須恵器や玉類の装身具、刀や鏃(やじり)など鉄製の武器、馬具などの副葬品が出土しました。

平成22(2010)年に発掘調査が行われ、現在は墳丘も修復されて、石室も組み直されています。道の駅豊北にお越しの際は、ぜひ見学していって下さいね!