道の駅 北浦街道ほうほく For Foreign Tourists

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スタッフブログ 2012.03.11

1年目

こんばんは。
菊地です。

今日は角島へ行って来ましたが
様々な想いで海を眺めて来ました。

明日で東日本大震災が発生してから1年が経とうとしています。

テレビでも震災の特集がよく報道されてます。
いつ見ても胸が苦しくなる映像です。

私の両親は地震発生当時
岩手県の実家にいて被災し実家は津波で流され全壊しました。

母は煮物を作っていて
父は自分の釣り船を船着き場に出してきて
知人と話し中の時の大地震。

『多分津波が来るだろうから』
と父は出してきたばかりの船を陸に上げようかと
海に戻ろうとしましたが

『やっぱりとりあえず避難したほうが良いんじゃないか』
となり、母の事も心配だったためいったん実家へ戻ったのです。

あくまで『とりあえず・・・』です。

あの時
海に戻っていれば父の命はなかったと思います。
そして
『とりあえず』でも避難してくれていたので命を失わずに済みました。

『ここまではこないだろう・・・』と避難せずに実家に居たら
実家と一緒に父も母も流されていたし
もしあの日、父が船で沖に行っていたら
母は心配で海岸まで迎えに出ていたかも知れません。

そしてあの地震が夜中だったら・・・・
生存の確率はほぼなかったでしょう。

地震後両親は比較的冷静に避難できたようです。

母は作っていた煮物を鍋ごと持ち
布団も車に積み
大切な書類やお財布
ノートパソコンまで積んで
服を着こみ厚着をして同じ地区に住む親戚の後を追い
車で高台に避難しました。

海沿いの山の中を車で走っている時
『どーーーーんっ!!!』と凄まじく大きな音が聞こえたと
母は言っていました。

田野畑村はリアス式海岸で切り立った断崖絶壁が
数々あります。
両親と親戚たちは海の様子が見渡せる鵜の巣断崖という場所に行き
海の様子を見ていました。
その時母が携帯で撮った写真です。

引き波で海の底が丸見えです。

写真のファイル名が20110311~1540となっているので
時間的に第1波目?第2波目が来る前の引き波なのだろうとは思いますが
両親たちも避難のため車での移動中は海を見ていないため
何波目かは定かではないと言っています。

凄まじい轟音で大きな渦潮が発生し茶色い大きい波がぶつかりあって
陸を目指して猛烈なスピードで襲いかかる様子を見ていた父は
クチをあんぐり開けて『地獄のようだ』と言ったと母は言っていました。

普段の鵜の巣断崖はこんなに美しい場所です。

引き波の写真と見比べて頂ければ分かると思います。
海中に黒く見える岩の辺りは相当深いのですが
それより深い場所まで波が引いています。
そしてこの断崖自体も岩に打ち付ける白波が
スローモーションに見えるくらい高い断崖です。

・・・・想像ができません。

両親はずーっとその断崖に居ましたが
大きな余震が続き
その断崖も地割れが生じ危険だったため
また親戚一同で移動したとのことです。

それから夜も更け
電気も止まり
まっ暗いままで
避難所へ移動。

『とりあえず避難して後で戻ってくればいい』
と、思っていたのが

道は寸断され実家へ戻ることはできなく
そのまま避難所での避難生活が始まったのです。

私の実家は海から約1.2キロ位で徒歩で約10分以内の距離にあり
海抜もおよそ25mはあったと思います。
私自身まさかそこまで津波が到達するとは思ってもみませんでした。

私の実家は建っていた場所から約300m以上先にある橋のたもとに
実家の二階の一部だけが斜めになった状態で残っていたそうです。

そしてこれが私の実家があった島越地区の海水浴場に押し迫る津波です。

波が盛り上がっている部分には岸壁があり灯台もありましたが
その一部すら見えないくらい大きな波が岸壁を軽々
飛び越えています。
右にある建物は3階建てのビルです。

下の写真は震災の前の年の2010年の夏休みに
島越海水浴場で撮った写真です。

海辺の白いシャツを着た人の向こうに
うっすらと灯台があるのが解るでしょうか?
岸壁の高さは海面から結構な高さです。
父に聞いたら『海面から10mはないと思う』
と言っていました。

小石が広がっている部分が
津波襲来画像で水浸しになっている部分です。

これは海上から灯台付近を撮影した写真です。

こと時の夏が
幻だったように思えてしまいます。

そして下の写真は
その夏休みに実家に行った時に撮った写真です。
私にとってはこれが最後の実家の思い出となりました。

庭でBBQをしている写真です。

そして下の写真が現在の実家の跡地
です。
基礎が雪で隠れていますが
それ以外はもう何も残っていません。
庭に生えていた沢山の木々も根こそぎなくなりました。

遠くに見える白い建物の向こうにある橋に
実家二階部分が津波で押し流されていました。
上の実家跡地の写真は
先月2月28日に岩手への視察の際
実家跡地へ寄った時に撮影したものです。

下の写真は海水浴場前にある
島越駅の宮沢賢治の碑の前を撮った写真です。
高い鉄橋がありましたが津波で破壊されました。
今は橋脚しか残っていません。

その鉄橋へ避難し津波に飲まれた犠牲者の方々もいます。
その犠牲者の中に私が小学校生活での約4年間
スポーツ少年団でバレーボールを指導してくれたコーチもいました。
明るく優しく楽しい指導してくれるコーチでした。
本当に未だに信じられないしその時の状況を思うと
胸が痛いです。

私の親戚のお兄さんも消防活動をしていた時
津波に飲まれ未だに行方不明のままです。
震災後『早く見つかって!!』と毎日手を合わせていました。
そのお兄さんとは震災の前年の夏のお盆に会ったのが
最後になってしまいました。
生まれた赤ちゃんを抱いていて
そんなお兄さんと笑いながら楽しく話したのが
まさか最後になるなんてその時は考えもしませんでした。
今でも見つかってくれることを心から願っています。
まだ信じたくないです。
やはり見つかるまでは納得できないし
認めたくない気持ちがあります。

近所の先輩や同級生のお兄さんや
両親が良く知る人たちが
犠牲になってしまいました。
信じられませんが信じたくなくても
少しずつでも現実を受け止めなければなりません。

犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りいたします。

下の写真は被害を受ける前の島越駅です。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に基づき
カルボナード島越と言う名前の駅でした。

右下に宮沢賢治の碑が見えます。

この駅の写真には鉄橋の待合室の外で列車を待つ人々が
写っています。
鉄橋がどのくらいの高さだったか想像できると思います。

これはその駅の鉄橋上からの写真です。

こんな高い場所にまで津波は襲ってきました。
目撃者によれば大きな津波は
駅舎の丸い屋根の上を勢いよく超えて迫って来たそうです。

駅の
写真右側に建っている住宅の住人の方が
海水浴場を襲う津波の写真を撮影しました。
足もとまで津波が迫ってきたとのことです。

三陸鉄道のトンネルだけが鉄橋の面影を残しています。

そして今も当時のままの状態で放置されている
灯台がある岸壁です。

灯台は何とか残ったようですね。
岸壁は津波で押し倒されガタガタになったままです。
ここは父親や漁民が船を停泊させていた場所でもあります。
父はここに戻ろうとしたのですが『とりあえず』避難したのです。

周辺の様子は
防波堤はかさ増し工事されていた部分もありましたが
瓦礫がなくなった以外は
ほとんど当時と変わっていません。

そして下の写真は両親が住んでいた仮設住宅です。
私が話しているのは親戚のおばさん。
両親がいた仮設の隣にはその父の兄とその妻のおばさんが今も住んでいます。
タイミング良く帰宅したばかりとのことで
山口県に居るはずの私が突然現れたのでとっても驚いていました。

次の移動先の時間もあるので
10分位しか話せませんでしたが
そのおばさんと会話していたら

偶然親戚のおばあちゃんも向こうから歩いて来ました。
父の母親の妹にあたります。

偶然会えて嬉しかったです。

今度はいつ会えるか解らないので
抱っこしてきました。

おばさんは私たちが引っ越した後
『全国の天気予報が流れると山口県の天気も気になって見てるよ』
と言ってくれていました。

駐車場を