ますら男の 心に花は 咲きにけり 散りても四方に 香は匂ひつつ(伴林光平/『歎涕和歌集』)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは、薄曇りの晴れ。
道の駅ほうほくでは、本日(3/4)大人気!サザエつかみ取りでしたが、整理券はまたたく間になくなりました。明日(3/5)は8時半~サイコロチャレンジ!を開催します。こちらもなくなり次第終了。お早めに!
昨日(3/3)は桃の節句。道の駅ほうほくのご近所、下関市立豊北歴史民俗資料館 「太翔館(たいしょうかん)」では、明治・大正時代に制作されたお雛様を展示しています。明日(2023年3月5日)まで!
今回飾られている「古今雛(こきんびな)」は、江戸時代半ばの安永頃(1772-1780)、文化の中心が京都から江戸に移って登場した、江戸好みの雛人形。現代の雛人形の源流とされます。
面長の顔、目に硝子玉や水晶玉をはめ込む技法「玉眼(ぎょくがん)」で活き活きとした表情。有職(ゆうそく:京都の朝廷のルール)にとらわれない華やかな衣裳、女雛の天冠など、古今雛の特徴をぜひご覧ください。
ただし、下関市域ではまだ桃より梅の花。道の駅ほうほくから、車で約20分、山口県下関市豊北町田耕にある本宮中山神社(ほんぐうなかやまじんじゃ)では、ちょうど梅が咲いています。
御祭神の中山忠光(なかやまただみつ:1845-1864)は、幕末に活躍した尊王攘夷派の公家。父は後の大納言・中山忠能、姉の孝明天皇典侍・慶子は明治天皇の生母。中山忠光は、明治天皇の叔父にあたります。
侍従として朝廷に仕えていましたが、尊王攘夷の志やみがたく、文久3(1863)年3月に官位を捨てて長州(山口県)へ出奔、5月の下関攘夷戦争に参加。上京して8月17日、幕府方の大和国五條(奈良県五條市)代官所を襲撃し挙兵した天誅組(てんちゅうぐみ)の主将となります。
しかし幕府軍の追討を受け、天誅組は9月末の鷲家口(わしかぐち)の戦いで壊滅。長州へ逃れた中山忠光は長府藩に匿われ、豊浦郡(下関市域)を転々とし、翌元治元(1864)年11月、田耕村(下関市豊北町)で暗殺されます。享年20歳。
暗殺は長府藩によるとされますが、詳細は不明。遺骸はひそかに運ばれ、綾羅木浜で埋葬されました。翌慶応元(1865)年墓碑と社が建立され、下関市綾羅木の中山神社となります。
暗殺の地・田耕には、石碑が立てられ祭られていましたが、昭和38(1963)年に本宮中山神社が建立されました。毎年、命日にあたる12月6日に、祭礼が行われています。
ますら男(お)の 心に花は 咲きにけり 散りても四方(よも)に 香(か)は匂ひ(にほひ/におい)つつ(伴林光平/『歎涕和歌集』)
↓
咲いた花が散ってもまわりに香りを残すように、志士の心に咲いた志の花は人々に誉れを残すだろう
今回の冒頭は、天誅組の志士・伴林光平(ともばやしみつひら:1813-1864)の和歌。河内国志紀郡(大阪府藤井寺市)の真宗寺院に生まれ、長じて僧侶となるも歌人、国学者として活動。還俗して大和国(奈良県)に住み、文久3(1863)年8月、天誅組の大和挙兵に参加。
記録方、参謀方として奮戦しましたが,捕えられて京都の六角獄舎に囚われ、翌年2月16日、同志20余名とともに処刑されました。著書に『大和國陵墓検考』『南山踏雲録』など。
白滝山の麓の本宮中山神社では、まだしばらく梅の花を楽しめそうです。詳しい場所は、道の駅ほうほくの情報コーナーまで(^o^)/
◆太翔館(たいしょうかん)展示「古今雛」
- 日時:2023年3月3日(金)~3月5日(日)9:00~17:00
- 会場:下関市立豊北歴史民俗資料館「太翔館」和室(山口県下関市豊北町滝部3153-1)
- 入館料:無料
- 休館日:月曜(祝日等の場合は翌平日)
- 問合せ:083-782-1651
◆本宮中山神社
- 住所:山口県下関市豊北町田耕杣地