珍山砲台址・日和山砲台址 共に阿川村海岸にあり。維新前辺防急なるの時、吉田松陰此の地を巡視したるとあり。(御薗生翁甫『防長地名淵鑑』)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほく、雲はあるけど晴れ。天気予報では雨マークが出ていますが、青空が見えています。山口県は熱中症警戒アラート発令中!
今週末9/2(土)は豊北夏祭り、滝部の豊北総合運動公園で開催です。阿川ではないので、お間違いなきよう!
先日、道の駅からほど近い、下関市豊北町阿川にある日和山(ひよりやま)に行き、「松陰先生登臨之跡(しょういんせんせいとうりんのあと)」碑と「松陰亭(しょういんてい)」を見て来ました。「亭」とは、東屋(あずまや)のような、小さな休憩所のこと。
江戸時代の終わりごろ、山口県域を領地としていた大名・毛利家は、海の向こうからやってくる西欧列強の脅威に対抗するため、海辺防衛を固めようとしていました。嘉永2(1849)年7月、萩藩主の意を受けて、海岸の防衛体制を見て回る視察団が派遣され、今の下関市豊北町も訪れます。その中に、20歳の吉田松陰がいました。
旧暦7月9日、阿川(豊北町阿川)に到着した視察団は、本浦に船をつなぎ、宿をとります。翌10日は風が強くて船出できず、一行は二手に分かれ、吉田松陰は陸路で滝部から上太田・神畑(上畑)を経て、狗留孫山に参詣。来た道を戻るのではなく、川棚小野から湯玉に降りて、湯玉に泊まります。
翌日、二見、矢玉、和久をとって肥中の宿に入り、他の視察団と合流。翌12日も雨で連泊することになり、徒歩で附野・島戸を見て回り、阿川に戻って日和山の台場に上ったのです。視察団一行はその後、下関まで赴き、六連島にも行き、萩に戻ります。20歳(数え年)の青年にとっては、楽しい船旅だったことでしょう。
珍山砲台址・日和山砲台址 共に阿川村海岸にあり。維新前辺防急なるの時、吉田松陰此の地を巡視したるとあり。(御薗生翁甫『防長地名淵鑑』)
今回の冒頭は、昭和6年(1931年)に刊行された地名研究書『防長地名淵鑑(ぼうちょうちめいえんかん)』から。「防長」は旧国名の「周防国(すおうのくに)」と「長門国(ながとのくに)」のことで、つまり山口県地域のこと。「淵鑑」は深い池と鏡で、どちらも物や風景を映すものですが、転じて歴史を探って映し出して知るというイメージで使われます。
『防長地名淵鑑』は、山口県の地名を考える時の必読書。著者の御園生翁甫(みそのうおうすけ:1875~1967)は、大正から昭和にかけての郷土史家。大正時代の終わり頃、逓信省退官して郷里の山口県に帰り、91歳で亡くなるまでさまざまに活躍しました。
先日、ふと「今日は旧暦7月12日か…吉田松陰が日和山に登った日だ!」と気づいて、ちょっと足を延ばしてみました。阿川浦には説明板も立っているのですが、そちらは撮り忘れました…。
昨年までの豊北夏祭りは阿川ほうせんぐり海浜公園が会場だったので、日和山からはいい眺めだったことでしょう。阿川浦から登れる小さな山(5分で松陰亭)ですが、小さくても山なので、足元が危ないです。訪れる時にはきちんとした靴を履き、虫にも気をつけてくださいね。