関門海峡夜景クルーズに行きました
おのれ一人手挑灯を持檀浦上の台ばへも行見候処長府方各炮の仕度最中也さて大砲凡十四五発庚辰丸より打又沖の方よりも十三四発打出申候異船よりかと存候処あとニて承候得バ癸亥丸より打出し候由也異船よりハ今夜一発も不打出候庚辰癸亥挟打ニ致候由也(『白石正一郎日記』文久三年五月十日条)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは快晴、お出かけ日和です。今朝、道の駅ほうほく展望テラスの端っこにある蓮の水槽に、ミニサイズのカエルがいました。かわいいですね。
交流広場には、小鳥も。どちらもすぐいなくなりましたが、たくさんのお客様が来られる、自然豊かな豊北町です♪
先日、道の駅から車で1時間ちょっと、関門海峡の2024期間限定夜景クルーズに行きました。本州と九州を隔てる関門海峡を、90分かけて船で巡ります。夜の海!
下関市の唐戸桟橋から出る便と、福岡県北九州市門司区にある門司港から出る便があります。下関市が関門エリアの活用を目指したカイキョーリボーンプロジェクトの社会実験「カイキョーソトアソビ2024」により、今年は10月も第一・第二土曜日、唐戸発着で運航します。
見どころは関門橋、門司港レトロ、赤間神宮、カモンワーフ、海響館からはい!からっと横丁、海峡ゆめタワー、巌流島、小倉駅前や小倉の工場夜景など。下関観光ガイドの会による解説あり。
北九州市が門司から小倉、赤松まで連なる横に長い夜景なら、下関市は観覧車や海響館、消防署や海峡ゆめタワーと、ポイント強調の夜景。あるかぽーとの岸壁に連なる灯も、海から見ると水面に映って綺麗です。
関門海峡には、導灯や潮流信号など、船の安全な航行のための目印が、多数設置されています。夜間でも移動する船が多く、大きい船が横を通ると、大きな波で乗っている船も揺れました。さすが大動脈!
関門海峡夜景クルーズは、定員70名。船酔いする人には勧められませんが、お好きな方はぜひ乗ってみてください!
この関門海峡では、幕末に大きな事件がありました。文久3(1863)年5月10日に始まる外国船への砲撃とそれに対する報復戦争、文久4(1864)年8月の四ヶ国連合艦隊による下関戦争です。
おのれ一人手挑灯を持檀浦上の台ばへも行見候処長府方各炮の仕度最中也さて大砲凡十四五発庚辰丸より打又沖の方よりも十三四発打出申候異船よりかと存候処あとニて承候得バ癸亥丸より打出し候由也異船よりハ今夜一発も不打出候庚辰癸亥挟打ニ致候由也(『白石正一郎日記』文久三年五月十日条)
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自分一人で提灯を持ち壇ノ浦の上の台場へ行ってみると、長府藩の面々も砲撃準備中であった。すると大砲を十四五発ほど庚辰丸が撃ち、また沖の方からも十三四発撃ったので外国船からだと思ったが、後で聞くと癸亥丸から撃ったものであった。外国船からは、今夜一発も砲撃がなく、庚辰丸と癸亥丸が挟み撃ちにしたからだ。
今回の冒頭は、幕末の下関で勤王商人、後に奇兵隊士として活躍した白石正一郎(しらいししょういちろう:1812-1880)の日記から。日本に迫る西欧列強の脅威に対し、危機感を覚えた攘夷派が、文久3(1863)年5月10日、下関で外国船を砲撃した時の記事です。
江戸幕府が行った開国に不満を持つ攘夷派の人々が、朝廷の攘夷派公卿たちと結びつき、攘夷派の中心だった下関を訪れます。白石正一郎は下関の自宅に人々を迎え、もてなし、時には援助していました。
下関攘夷戦争については、下関市立歴史博物館で下関戦争160年記念特別展『攘夷と戦争』開催中。今日(9/29)までなので、お早めに!
攘夷戦争の先鋒を担った人々が擁立したのが、京都の公家でありながら官職を捨てて長州へ来た中山忠光(なかやまただみつ:1845-1864)でした。当時、数え年で19歳。姉が孝明天皇の後宮に仕え、明治天皇の叔父にあたります。5月10日は九州に行っていましたが、その後下関に戻り、攘夷戦争の現場にいました。
その後上京し、奈良で天誅組の変を起こして幕府軍に敗れ、追われて再び長州を訪れます。長府藩に匿われ、豊北町の北宇賀や田耕に滞在しますが、翌年の元治元(1864)年11月、白滝山の麓で暗殺されました。享年20歳。今年は、没後160年です。
遺骸は綾羅木まで運ばれ、奇兵隊により墓が建てられ、現在は中山神社となっています。暗殺の地、現在の豊北町田耕には石碑と、後に本宮中山神社が建てられました。現在まで続く歴史を思いながら、関門海峡クルーズや、豊北町の史跡探索も良いものです。
道の駅ほうほくには、北宇賀産の新米が登場しています。幕末の志士が眺めた景色の中で育ったお米、ぜひ食べてみてください!