紅葉の本宮中山神社と『源氏物語』に登場するニンニク
逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひる間も何か まばゆからまし(『源氏物語』第2帖帚木)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは晴れ間が見える曇り、風は強いですが元気に営業しています!
今朝、道の駅ほうほくから車で約20分、下関市豊北町田耕にある本宮中山神社に、紅葉を見に行きました。綺麗に色づいていて、見頃を迎えています!
来週12月6日(金)、ご祭神・中山忠光(なかやまただみつ:1845-1864)卿の命日祭が行われます。今年は没後160年祭。
中山忠光は、幕末の京都に藤原氏の一門として生まれました。父は後の大納言・中山忠能、姉の孝明天皇典侍・慶子は明治天皇の生母。中山忠光は、明治天皇の叔父にあたります。
侍従として朝廷に仕えていましたが、尊王攘夷の志やみがたく、文久3(1863)年3月に官位を捨てて長州(山口県)へ出奔、5月の下関攘夷戦争に参加。上京して8月17日、幕府方の大和国五條(奈良県五條市)代官所を襲撃し挙兵した天誅組(てんちゅうぐみ)の主将となります。
しかし幕府軍の追討を受け、天誅組は9月末の鷲家口(わしかぐち)の戦いで壊滅。長州へ逃れた中山忠光は長府藩に匿われ、豊浦郡(下関市域)を転々とし、翌元治元(1864)年11月、田耕村(下関市豊北町)で暗殺されました。享年20歳。
暗殺は長府藩によるとされますが、詳細は不明。遺骸はひそかに運ばれ、綾羅木浜(下関市綾羅木)で埋葬されました。翌慶応元(1865)年に墓碑と社が建立され、綾羅木の中山神社となります。暗殺の地・田耕には、石碑が立てられ祭られていましたが、昭和38(1963)年、百年祭を機に本宮中山神社が建立されました。
道の駅ほうほく情報コーナーでも、中山忠光をご紹介しています。ほっくんにも、お公家さんの冠をかぶってもらっていました。
今年のNHK大河ドラマ『光る君へは、『源氏物語』を書いた紫式部が主人公。ドラマには、中山忠光のご先祖にあたる、藤原道長や頼通が登場しています。
逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひる間も何か まばゆからまし(『源氏物語』第2帖帚木)
↓
逢ふ(あう)ことの 夜をし隔(へだ)てぬ 仲ならば ひる(蒜/昼)間も何か まばゆからまし(『源氏物語』第2帖帚木)
↓
毎晩会っている仲ならば、ニンニク(蒜)の匂いがする昼間だからといって、会いにくいなんてことはないでしょうに。
今回の冒頭は、『源氏物語』第2帖「帚木(ははきぎ)」から。主人公の「光源氏」と、親友でライバルの「頭中将(とうのちゅうじょう)」など、四人の若者が宿直の夜に、恋愛経験や女性観を語り合う「雨夜の品定め(あまよのしなさだめ)」の場面。
四人のひとり、藤式部丞(とうしきぶのじょう)が語る経験談で、女性から投げかけられた返歌です。かつて、学者の娘で漢詩文が得意な女性とねんごろな仲になった藤式部丞でしたが、勉強を教えられたりすることに引け目を感じて、なかなか会わなくなりました。
久しぶりに女性を訪ねてみると、いつものように打ち解けず、物を間に挟んで隔てを置かれました。女性が言うには「ここのところ、ひどい風邪をひいてつらいので、「極熱の草薬」を服用してたいそう臭いので、直接会うことはしませんが、何か御用があるのでしょうか」と、冷たくあしらわれます。この「極熱の草薬」がニンニク。
藤式部丞が「わかりました」と立ち去ろうとすると「この匂いが消えたころにお越しください」と言うので、藤式部丞が「ささがにの ふるまひしるき 夕暮れに ひるま過ぐせと いふがあやなさ(蜘蛛が動き出す夕方に来た私に、蒜(ニンニク)が匂っている昼間を過ぎてから来いとは意味がわかりません)」と和歌を詠みました。
ニンニクの古名「蒜(ひる)」を、発音が同じ「昼(ひる)」にかけています。「昼を過ぎてから来いと言うが、ちゃんと昼を過ぎた夕方に来てるのに会えないなんて」でしょうか。
それに対して、女性は冒頭の「逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひる間も何か まばゆからまし(毎晩会っている仲ならば、ニンニク(蒜)の匂いがする昼間だからといって、会いにくいなんてことはないでしょうに)」という和歌を返します。「めったに会えないからこそ、身綺麗にできない時に会いたくないのよ」という女心。
藤式部丞と女性は、お互いに、ニンニクの当時の名前「ひる(蒜)」と「昼」をかけた和歌を詠みあってやりとりしています。「せっかく来たのにニンニク臭いならもういい」「本当に好きならニンニク臭いくらい平気でしょ」が、非常に優雅で、どこかユーモラス。和歌って不思議ですね☆
道の駅ほうほくには、長州黒にんにくの他、ニンニクを使った商品がたくさんあります。平安時代の昔から薬として扱われていたニンニク、寒くなった今の季節の滋養強壮に、どうぞ☆