皆さま、こんにちは!
菊地です ★
ここのところ小春日和で暖かい日が続いていましたが・・・本日は少し肌寒さを感じますね 今朝は寒くて目が覚めてしまいました
気温差が激しい日々ですが皆さま風邪など引かないようくれぐれもお気を付けくださいね!
さて
道の駅ほうほくではblogでもお知らせをさせていただきましたが、東日本大震災のパネル展をエントランスホールにて開催しております。
「忘れないでほしい」~2度目の3.11 岩手県宮古市・山田町~
もっともっと展示したい写真はあったのですが、今回は約40枚の展示となりました。
2011年3月11日からもう2年が過ぎました。
でも
まだ2年。
気持ちはあの時からあまり変わりません。
そして被災地の復興状況も思ったより進んではいません。
でも
その中で東北の皆さまは明るい笑顔で輝いていました!
1年ぶりの故郷の姿はまだ復旧段階ですが、皆さまはしっかり、そして少しずつですが着実に前に歩んでいましたd(`・ω・´)b
新しく商品を開発したり、産品交流を進めていたり・・・試行錯誤しながら戦っていました。
←宮古市の道の駅シートピアなあどを望む宮古漁業協同組合前にて『探検ごっこ』をしていた小学生と一緒に。
この場所は津波襲来時には避難場所になりました。(下の写真)
(宮古市役所提供)
←道の駅やまだのスタッフの皆さん。今回のパネル展の画像提供をしてくださいました。
私と10年以上も前から知り合いの支配人の阿部さんは昔から『超』がつくほどの照れ屋さん。気が付くと消えています(笑)
昨年訪れた時は腰を痛めていた阿部支配人も、先月会った時は腰も真っすぐと何だか昨年に比べると表情も明るく生き生きしていたように感じ、何だか安心しました
松茸の炊込みご飯の元や郷土料理(お菓子)の『ひっつみ』などもいただきました。
道の駅やまだの皆さま!
味にうるさい当駅の副駅長の藤永より『ええ味しちょる!』とお褒めのお言葉をいただきましたよヽ(*´∀`)ノ
阿部さん、豊間根さん、そして道の駅やまだのスタッフの皆さま!いろいろありがとうございました!
道の駅やまだではblogにて私たちが訪れた時の様子を紹介してくださいました!⇒http://yamada-michinoeki.seesaa.net/article/331752512.html
カメラの存在を知るなり事務所へ引きこもってしまった阿部支配人もバッチリTVにて放送されましたので、あとで映像を送付しますね( ´艸`)!
今回のパネル展の画像を提供していただいた宮古市役所では、津波襲来の瞬間が撮影された場所へむかい、そこから現在の宮古市を眺めて来ました。
←庁舎5階のベランダから、その時の様子を説明してくださる宮古市総務企画部課長の山根さん。
そして津波襲来時↓↓
左の写真が同じポイントから撮影した今の状態に近い宮古湾の様子です。
上の写真の黒いヘドロ混じりの津波は道路に沿ってそびえ立つ約5mの防波堤を簡単に超え、街を一気に襲いました。(宮古市役所提供)
当時、庁舎5階からは道路を行ったり来たりする車や逃げる人々も見えましたが・・・この5m近い防波堤の向こうでその時何が起きようとしているかは、その方々には見えないのです。必死に避難するように叫んでもその声は届きませんでした。
本当に現地に行き同じ場所に立つと、いろいろな感情になり、様々なことが頭を駆け巡ります。
左の階段は、私の実家があった田野畑村島越地区の駅『カルボナード島越』の跡地。
私はこの階段を毎朝駆け上がり中学校や高校へ通学していました。
津波はこの階段の先にあった約20mの高さのホームを破壊し飲み込みました。
もう昔のようにこの階段を駆け上がることはできません。列車に遅れないように必死で駆け上がったあの時、そしてそれを知り発車を待ってくれていた運転手さんや車掌さんの優しい笑顔が懐かしく頭に浮かびました。
自然災害は人間の力ではどうすることもできません。
自然の力を抑えよう、またはコントロールしようとすること自体が不可能です。
万里の長城と呼ばれ世界的にも名の知られる存在となった宮古市田老(旧田老町)の防潮堤。
高さ10m、長さは2433mもある街を囲み守る『要塞』でした。
そんな『要塞』も自然の驚異にはかないませんでした。
街の中に襲いかかる津波
(上写真と同じポイントから撮影)⇒
自然を目の前にして生きる以上、想定範囲以上の自然災害を頭に置いて生活して行かなくてはなりません。
←田老の防潮堤はこんなに高くて大きいのですよ。
自然の驚異は誰にも予想なんてつきません。
宮古市は本州最西端の下関市と反対の最東端にある街ですが、その最東端の岬、魹ヶ崎灯台から南西に約2キロのところにある姉吉漁港から伸びる急坂の途中に『津波記念碑』があります。
昭和大津波の直後に、生き残った人々が『こんな悲しみは再び繰り返してはいけない』という強い思いで、津波の到達地点よりも更に20mも高い海抜60m地点にこの石碑(左)を建立。
それ以後、この地域の住民は石碑よりも高いところで生活するようになり、それ以後石碑よりも海側に家屋が建てられることはなく、今回の3.11の津波の際も波は石碑の50m手前まで押し迫りましたが、住民が生活する場所までの到達は免れ、この地区の住民は全員無事だったのです!
この『津波記念碑』には
高き住居は児孫(じそん=子と孫。子孫)の和楽(わらく=互いにうちとけて楽しむこと)
想へ惨禍(さんか=天災・人災などによる、むごたらしくいたましい災難)の大津浪
此処より下に家を建てるな
明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て
部落は全滅し、生存者、僅かに前に2人後に4人のみ
幾歳(いくとし)経るとも要心あれ
と記されています。
先人の教えを守った住民と、その辛い経験を石碑として今に残した先人の『教え』
それが今回の3.11からその地域を守ってくれました。
『自然』 にはかなわないのです。
だから津波の被害を免れる術は高台での生活しかないのです。
美しい自然を守りながら
そして
命も守りながら・・・
そして
この経験をこれからの未来を歩む子供たちにきちんと繋げれるように・・・
ずーっと忘れさせないように!
これからも復興にむけて前に進みます!がんばるぞ!東北!!
上の写真は宮古市役所5階で復興に励む宮古市水産課の皆さま!情報提供等のご協力ありがとうございました!私の右隣の方は下関市役所から出向され、復興のため力を注いでくださっている仙田さんです。遠い下関市から宮古市のために一生懸命がんばってくださっています。本当に感謝です。
そして
今回の岩手県訪問での取材などにご協力してくださった
下関市役所東日本大震災被災者支援対策室室長の菊地様
宮古市役所の総務課・水産課の皆さま・介護福祉課の菊地様
道の駅シートピアなあどの皆さま
宮古市ワカシの会の皆さま
山田町役場総務課の皆さま
道の駅やまだの阿部支配人とスタッフの皆さま
山田町観光協会の皆さま
道の駅たろうの門屋駅長とスタッフの皆さま
田野畑村仮設住宅で頑張るおじちゃん、おばちゃん、お兄ちゃんたち・・・
『素敵な笑顔をありがとうございました!』
皆さまの笑顔からはすごいパワーをいただきました!
私は信じています。東北の皆さまの強さを!
皆さま
今後とも東北への変わらぬ支援をお願いいたします!
東日本大震災パネル展は22日まで開催しております。なお、それ以降は展示範囲は狭くなりますが場所を移動しての展示も計画(※予定)をしております。
パネル展会場には東北被災地へ送るメッセージノートも設置してあります。皆さまぜひ!東北の皆さまへ心のメッセージを書き込んでいただけたらと思います!
以上
菊地がお届けいたしました★