わが身もし春まであれば尋ね見む花もその世のことな忘れそ(建礼門院右京大夫/『建礼門院右京大夫集』237)
おはようございます。山田です。今朝の道の駅は快晴。お出かけ日和ですよ!
道の駅ほうほくがある、下関市豊北町も、あちこちで桜が満開から散りはじめ。花の盛りは短いですね。
道の駅ほうほくにも、桜モチーフの商品がいくつかあります。長門市油谷のペパーミントさんの「さくらロール」は、桜葉を使った桜餡のタルト。柳井市のあさひ製菓さんの「月でひろった卵 さくら」は、桜香る桜チェリージャムが春色のふわふわ生地の中に。
桜の木は、公共スペースに植えられていたり、公園として整備されていたり、通りすがりに見ることができて、嬉しいですね。下関市役所豊北総合支所とか、その横のJAとか。
道の駅からほど近い、豊北町滝部にある「村田記念公園」には、福島県田村郡三春町から迎えた滝桜の苗木を植えています。
滝部の村田家は、幕末の志士・吉田松陰の母・滝子の生家とされています。滝子の父・村田右中は、萩藩主の分家で阿川と滝部に領地を持つ、阿川毛利家に仕えていました。
吉田松陰の実家・杉家は萩藩主毛利家の直臣なので、(萩藩毛利家の家臣の阿川毛利家のさらに家臣の)村田家とは身分が違うため、滝子は嫁入りの際、杉家と同格の、萩藩主毛利家臣・児玉家の養女として嫁いだとか。
もっとも、父の村田右中は、当時萩に住んでいたようなので、滝子が滝部の村田家にいたことがあるかどうかは、よくわかりません。吉田松陰は嘉永2(1849)年7月、滝部を通って狗留孫山に参拝していますが、特に意識はしていないようです。
村田家は明治維新後、滝部から去ったため、屋敷跡は荒れていましたが、2015年にNHK大河ドラマ『花燃ゆ』で吉田松陰の妹・文が主人公となったことで、地元に村田家顕彰会が設立され、村田記念公園が整備されました。
顕彰碑は地元出身の安倍晋三総理大臣揮毫。「碑」のつくりに一画目の点がないのは、顕彰(記念)碑なので「卑」という字の良くないイメージを避けるために、そう書くものだそうです。なるほど!
わが身もし春まであれば尋ね見む花もその世のことな忘れそ(建礼門院右京大夫/『建礼門院右京大夫集』237)
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私の身が、もし次の春まで無事だったら、また(この花を)見るために訪ねて来よう。だから花よ、どうか、その(昔、あの人と一緒にいた)時のことを忘れないでおくれ。
今回の冒頭は、建礼門院右京大夫(けんれいもんいんのうきょうのだいぶ)は、源平合戦の時代の女流歌人。平清盛の娘・徳子(建礼門院)に仕えた女房(侍女)で、平清盛の孫・資盛(すけもり)の恋人でした。
この歌は、源平合戦で失った恋人の荒れ果てた別荘を訪ねて、桜と柳は昔と変わらず美しく並んでいる様子を見て、詠んだ歌です。すっかり変わってしまった世の中で昔のまま、恋人を覚えているのは自分と花だけのような、そんな気持ちなのでしょうか。
「ことな忘れそ」の「な」は副詞、最後の「そ」は終助詞。終助詞「そ」は、動詞や助動詞の連用形に接続し、このふたつのセットで、禁止の意味になります。「ことな忘れそ」は、「ことを忘れるな」なので、「花もその世のことな忘れそ」は「花もその時代のことを忘れないでおくれ」という意味です。
一緒にお花見をした思い出は、桜の花が開くとともに、誰しも浮かぶものでしょう。時代は変わっても、花に託す人の思いは、そう変わるものではないですね。