牧崎ダルマギクの終わりと本宮中山神社
十五日侍従中山忠光病テ延行村ニ卒ス(『毛利家乗』元治元年十一月)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは、曇り。道端の紅葉の色も、あざやかです。
一昨日、角島の牧崎風の公園に、ダルマギクの様子を見に行きました。かわいらしい薄紫色の花は、そろそろ終わりのようです。遊歩道が整備されていますが、道には時々、牛の落し物(婉曲表現)があるので、足元にはじゅうぶんお気をつけてください。
今日は12月6日。道の駅ほうほくから車で約20分、下関市豊北町田耕にある本宮中山神社(ほんぐうなかやまじんじゃ)のご祭神・中山忠光公の命日祭です。
御祭神の中山忠光(なかやまただみつ:1845-1864)は、幕末に活躍した尊王攘夷派の公家。父は後の大納言・中山忠能、姉の孝明天皇典侍・慶子は明治天皇の生母。中山忠光は、明治天皇の叔父にあたります。
侍従として朝廷に仕えていましたが、尊王攘夷の志やみがたく、文久3(1863)年3月に官位を捨てて長州(山口県)へ出奔、5月の下関攘夷戦争に参加。上京して8月17日、幕府方の大和国五條(奈良県五條市)代官所を襲撃し挙兵した天誅組(てんちゅうぐみ)の主将となります。
しかし幕府軍の追討を受け、天誅組は9月末の鷲家口(わしかぐち)の戦いで壊滅。長州へ逃れた中山忠光は長府藩に匿われ、豊浦郡(下関市域)を転々とし、翌元治元(1864)年11月、田耕村(下関市豊北町)で暗殺されました。享年20歳。
暗殺は長府藩によるとされますが、詳細は不明。遺骸はひそかに運ばれ、綾羅木浜で埋葬されました。翌慶応元(1865)年墓碑と社が建立され、下関市綾羅木の中山神社となります。暗殺の地・田耕には、石碑が立てられ祭られていましたが、昭和38(1963)年に本宮中山神社が建立されました。
今回の冒頭は、長府毛利家が明治時代に編纂した家伝『毛利家乗(もうりかじょう)』から。中山忠光は、11月15日に延行村(下関市延行)にて病死とされています。しかし、実はこれは、中山忠光を預かっていた長府藩から萩藩への報告が出された日付。実際の報告では、11月3日逝去となっています。
中山忠光の死は秘匿されたため、本当の命日はよくわかっていません。ただ、その夜に中山忠光を誘い出した庄屋の妻が、明治時代になって「娘が生まれる前夜のことだった」と証言して、11月8日夜のことだと考えられるようになりました。
本宮中山神社の命日祭は、この11月8日説を採っており、新暦になおすと12月6日にあたることから、毎年12月6日に行われるようになったのです。
都育ちで身分の高い中山忠光ですが、田耕村(下関市豊北町)でかくまわれている間、猟師と一緒に山を歩いたとか、川で魚を捕まえるのが得意といった、野遊び(アウトドア)のエピソードが残っています。海の近くにある道の駅ほうほくには、魚介類がたくさん並んでいます。
今日はきれいなレンコダイがありました。先月もあったので、酒蒸しにして美味しくいただきました。お刺身もいいですが、焼いたり蒸したりもいいですね。道端の紅葉やお花を楽しみながら、お魚を選びに、ぜひ道の駅ほうほくへお越しください!