太翔館の金ノ弦岬灯台フレネルレンズと彦島の旧俎礁標(旧金ノ弦岬灯台)
水仙や 白き障子の 友移リ(松尾芭蕉『笈日記』尾張部)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは、あいにくの雨。それでも、この季節にしては温かいですね。
道の駅ほうほく、明日2/6(火)は定休日、明後日2/7(水)は施設補修工事のため臨時休業いたします。2/8(木)は平常通り開店しますので、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます。
昨日、角島灯台公園の水仙を見に行きました。盛りを迎えていましたが、例年に較べるとお花の数が少ないかもしれません。それでも、綺麗な花が風に揺れていて、癒されました。
水仙や 白き障子の 友移リ(松尾芭蕉『笈日記』尾張部)
今回の冒頭は、江戸時代の俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)の俳句。出典は、元禄8(1695)年に成立した句集『笈日記(おいにっき)』。東海・近畿地方で詠まれた芭蕉と門下生たちの発句700余句などを収め、特に芭蕉終焉の記事が詳しいです。
この句は、元禄4(1691)年10月20日頃。江戸への旅の途中、尾張国(愛知県)熱田の門人・梅人亭で、障子の白さと飾られた水仙の花の白さが照りあって美しい様子を詠んだもの。明るくて居心地の良いお部屋だったのでしょう。
下関市立歴史民俗資料館「太翔館」のエントランスホールには、「旧 金ノ弦岬(かねのつるみさき)灯台のフレネルレンズ(第6等)」展示中。2024年3月20日まで。ちょうど先日、下関市彦島で、役目を終えてレンズが外された状態の旧金ノ弦岬灯台(旧俎礁標)本体を見て来たところです。
山口県下関市彦島の南端に建つこの灯台は、下関市豊北町角島にある角島灯台と同じ、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によるもの。もともとは明治4(1871)年、国内で最初に関門海峡の岩礁に設置された、礁標(しょうひょう)でした。元治元(1864)年に行われた下関攘夷戦争の、賠償要求に基づき造られたとのこと。
灯火の管理技術が進歩したため、明治23(1890)年、昼夜灯の挂灯立標(けいとうりっぴょう)に改変して、現在の姿となりました。大正9(1920)年に現地に移築されて金ノ弦岬灯台となり、平成12(2000)年まで灯台として活用。
灯浮標の整備に伴い、灯台としての役割を終えましたが、下関市有形文化財に指定され、令和3(2021)年には、六連島灯台の附(つけたり)として、「旧 俎礁標(まないたしょうひょう)」の名で、重要文化財に指定されています。
名称としては「旧 俎礁標」「旧 金ノ弦岬灯台」は使われた時期が違うだけで、どちらも正しいです。ただ、重要文化財指定時の名称が、歴史的経緯を鑑みて「旧 俎礁標」なので、こちらを使うことになります。「俎(まないた)」はたぶん地名からで、灯台が建つ岩場付近がそういう名前だったのかも。
「旧 俎礁標」は、現在、彦島にある下関市営下関南霊園の側に建っていて、霊園から眺めることができます。ということで、撮影して来ました。カラスがいるのはご愛敬☆
旧金ノ弦岬灯台のフレネルレンズは、太翔館の所蔵になっているそうです。太翔館の許可を得て、撮影・掲載。エントランスホールの展示では、分厚いガラスのレンズを、本当に間近で見ることが出来ます。大正から平成にかけて、100年近く、彦島の先で関門海峡を照らしていたレンズが豊北町にあるというのも、不思議なものですね。
全国で16基しかない登れる灯台のひとつ・角島灯台は、上まで登れば設置されたフレネルレンズ(第一等)を間近で見ることができます。角島灯台と太翔館は車で20分くらいなので、見比べるのも一興。太翔館は入場無料、入ってすぐのエントランスにあるので、ぜひ見に行ってください!
角島灯台は、2024年3月20日まで、日没~22時、夜間ライトアップ中(夜間は建物には入れません)。夜闇に浮かぶ優美な姿を、ぜひご覧ください☆
今月の道の駅ほうほく、焼き立てパン工房ラメールでは、リニューアルした「NEW! ほっくんのキューブクリームパン」が、先月に引き続き、月間ご奉仕中。かわいいほっくんを旅のお供にいかがでしょうか☆