太翔館「浜出祭~絵巻でたどる浜出祭」に行きました
自武家辺内々申云、今日(宰府)飛脚到来、異賊舟三百艘着長門浦云云、閣鎮西直令着岸之条、畏怖之外無他、(『勘仲記』弘安四年夏六月十四日条)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほく、小雪がちらついていますが、元気に営業しています!
今日明日は、全国的にお天気に要注意ですが、山口県も雪予報。すでに積もっているところもあるので、お出かけの際はご注意ください。朝の一瞬でしたが、展望テラスもすごいことに…(^^;
こんな寒い日には、温かいものが食べたいですよね。道の駅ほうほくには、下関のふく(ふぐ)を使った雑炊スープがたくさん並んでいて、選び放題。ぜひ熱々のふく雑炊で、寒さを乗り切ってください!
今年の豊北町の話題といえば、やはり4月6日に行われる浜出祭(はまいでさい)。山口県の無形民俗文化財に指定されている、七年ごとのお祭りです。鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)時、豊北町にも蒙古軍が上陸して合戦となり、うち破ったものの蒙古の霊がたたりを起こしたので、鎮めるために始まったとされています。
浜出祭は、豊北町内の田耕(たすき)地区の田耕神社と、神玉(かみたま)地区の神功皇后神社の合同祭礼。もともとは、田耕の厳島神社と土井ヶ浜の夷社のお祭りでしたが、昭和時代にそれぞれ近くの神社に合祀されたのです。蒙古軍の大将を、厳島神社の神様の矢が射抜いたとか。
田耕地区と神玉地区、そして直子(のうし)地区から時代衣装をまとった行列が出発し、滝部地区で合流、神玉地区の土井ヶ浜に出て神事を行うお祭りですが、今年は簡略化される予定。浜出祭にあわせて、豊北町滝部にある下関市立歴史民俗資料館「太翔館(たいしょうかん)」では企画展「浜出祭~絵巻でたどる浜出祭~」が開催されています。2025年5月18日まで、月曜休館、9:00~17:00、入館無料。
今回の企画展で紹介されている「浜出祭絵巻」は、通称「神幸行列巻(しんこうぎょうれつのまき)」・「浜の神事巻(はまのしんじのまき)」の二巻からなっています。田耕の庄屋に伝わっていたもので、田耕朝生(あさおい)の内田某女絵師の手によるとされ、19世紀(1840年大~1870年頃)に作られたと推定されています。
江戸時代の終わりごろ、豊北町でこれほどの絵巻が描かれたということにびっくり。そして、絵巻の内容が、ひとつずつ詳しく解説されています。通常の展示で、これだけきちんと史料として紹介することはまずないので、ぜひゆっくり時間をとって見てください!
この展示では、豊北町域に残る元寇伝説を紹介しています。鎌倉時代の二度の蒙古襲来、いわゆる元寇は博多が第一目的地。たしかに近いと言えば近いですが、こっちに来るものでしょうか?
…でも、豊北町の元寇伝説は、「絶対ない」とは言いきれないのです。なぜなら、鎌倉時代の当時、書かれた日記に、それらしい記述があるから。
自武家辺内々申云、今日(宰府)飛脚到来、異賊舟三百艘着長門浦云云、閣鎮西直令着岸之条、畏怖之外無他、(『勘仲記』弘安四年夏六月十四日条)
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武家(ぶけ)の辺より内々に申して云ふ(いう)、今日宰府(さいふ)の飛脚(ひきゃく)到来(とうらい)す、異賊(いぞく)の舟三百艘、長門(ながと)の浦に着すと云云(うんぬん)、鎮西(ちんぜい)を閣(さしお)き直(ただ)ちに着岸せしむるの条、怖畏(ふい)の外(ほか)他に無し、(『勘仲記』弘安四年夏六月十四日条)
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武家(鎌倉幕府)からひそかに言ってきた。今日、九州の大宰府(だざいふ)からの急使が京都に着いた。外敵である蒙古の船三百艘が長門(山口県)の港に着いたとか。鎮西(九州)をさしおいて直接(本州に)船をつけるとは、恐ろしいというより他にない。
今回の冒頭は、鎌倉時代後期の公家・藤原兼仲(ふじわらのかねなか:1244~1308)の日記『勘仲記(かんちゅうき)』から。日記の名前は、家名「勘解由小路(かでのこうじ)」と名前「兼仲」からそれぞれ一字をとったもの。弘安(こうあん)4年は西暦1281年です。
当時の公家は、朝廷の朝臣として仕えつつ、より有力な公家つまり上司の家にも仕えていました。勘解由小路兼仲は最終的には「権中納言(ごんちゅうなごん)」という、いわば閣僚級となる公家ですが、一方で藤原一門の最有力家である五摂家(ごせっけ)のひとつ近衛(このえ)家の近臣でもありました。つまり、最高権力者の身近にいて、情報が入るのです。
ここでいう「武家」とは、京都にあった鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題(ろくはらたんだい)でしょう。「宰府」はもちろん大宰府(太宰府)で、福岡県太宰府市ですが、この場合は地名と言うより、そこにあった役所の役人を務めた武士、おそらく少弐(しょうに)氏かと。現代の感覚では、山口県の沿岸部に外国船が着いたという報告が福岡県を経由するのは不思議ですが、当時の外交を現地で担っていた部署にまず報告されたのでしょう。
もっとも、この記録からわかるのは、長門の浦(港)に「異賊舟三百艘」が着岸したという報告が大宰府から届いたということだけ。長門(ながと)は現在の山口県の西部・北部ですが、その浦(港)がどこかもわからないし、「着岸」が戦いになったのかそうではなかったのかもわかりません。そして続報もないので、この後どうなったかもわかりません。
だから、この記事があるからといって、豊北町に蒙古襲来があったと断言することはできません。でも、何もないよりは可能性がある…歴史研究って、面白いですね。
豊北町には、蒙古襲来に由来するとされる場所やものがいろいろあります。真偽のほどはさておき、長い歴史の中で語られてきたあれこれを、この機会にちょっと覗いてみませんか?