皆さま、こんにちは!
菊地です
昨日は入道雲もモクモク&お日様サンサンで梅雨が明けたのかと思ってしまうほどの真夏日和でしたね!
ジメジメしてなく風も気持ち良かったので、「こんな日を待っていました!!」とばかりに洗濯機をフルに回転させながら庭の草刈り
・・・あらゆる虫と戦いながら汗ダラダラ~の作業でしたが何だか爽快な気分を味わえた熱い1日でした(笑)
さて・・・
前回のブログでは恩徳寺の紫陽花についてご紹介しましたが、今回は恩徳寺の結びイブキに絡む心が切なくなるような悲しくも美しい・・・愛の伝説についてお伝えしたいと思います(*˘︶˘*).。.:*
恩徳寺は天文20年(1551年)に西国で最大の勢力を誇っていた大内義隆の側室、“お花の方”によって大内氏の没後、その菩提を弔うために建立されたと伝えられる古刹。
お花の方は当時身重のまま肥中に難を逃れ、尼になった後恩徳寺を建立。
まもなくして女の子が誕生しましたが、産後の肥立ちが悪く子どもを残したまま亡くなってしまいました。
残された子どもは“お花”と名付けられ叔父に預けられましたが、商売がうまくいかなくなった叔父の借金の肩代わりに売られ遊女となります。
その頃お花と知り合ったのが海の番人であった重蔵。
重蔵も貧しい家庭に生まれ育ち、幼少期に両親と死別という寂しい身の上。
似たような境遇の2人はいつしか愛し合うように・・・
そんな幸せを感じる日々の中、何とお花が重い病にかかってしまいます。
お花の病を治療するには、身請け(※)して遊郭からお花を救い出さなければなりません。
※身請けとは遊女などの身の代金や前借金などを代わって払い、その勤めから身を引かせること。落籍。
そんな時、幕府が朝鮮への特使として派遣する偉い僧侶一行が都からやって来ることを知った重蔵はその一行の献上品を盗み、それを売ってお花の身請けの資金にあてようと考えました。
しかし、重蔵が僧侶一行が休む宿に忍び込んだところを見つかってしまいます。僧侶の前に連れて行かれた重蔵は事の経緯とお花との悲しい運命を僧侶に話しました。
すると僧侶はやさしくうなずき、罪を償う条件として重蔵に弟子となって朝鮮へついて来るよう命じました。
重蔵は「三年後必ず帰るから待っていてくれ」とお花に言い残し僧侶一行と共に旅に出ますが、三年を過ぎても五年過ぎても十年が過ぎても・・・待てど暮らせど重蔵はお花の前に姿を現すことはありませんでした。
お花は重蔵が旅立ってから毎日恩徳寺へ参り、重蔵の無事を祈りました。
数十年後-・・・
「偉い僧侶が帰って来た!」
ある秋の日の肥中港は民衆たちで沸き立っていました。
その僧侶は静かに港に降りると弟子たちを引き連れ恩徳寺へ参りました。
その時僧侶の目に入ったのは・・・石を積み上げただけの小さなお墓。
お墓には「お花の墓」と書かれてありました。
僧侶は朝鮮から持ち帰ったイブキの苗をそのお墓の元へ植えさせました。
僧侶はその後都へ入り、名僧として八十才で亡くなる際に「肥中の“お花のお墓”の隣に名の無い者として葬って欲しい。」と言い残し、弟子たちが遺言により骨を埋めました。
今、そのお墓があったと伝わる場所に大きなイブキが育っています。
何十年も会えなかった悲しみや苦しみ、そして天国で再会できた嬉しさ・・・いろいろな感情が絡み合っているかのように重なり合っているイブキの枝幹。
いつの頃からか・・・
愛し合っている二人が一緒にこのイブキに触れると『きっと結ばれる』と言い伝えられているとのこと・・・
何んとも切ない・・・
儚い・・・
恩徳寺にある「さすり地蔵」は、目も鼻も口もないのっぺらぼう。
重蔵を思い毎日参ったお花が撫でたからと言われています。
正直なところ・・・顔がのっぺらぼうですので・・・最初はちょっと不気味な印象を持っていましたが、この伝説を知り、不気味さは一気に消え去り愛おしく思えるようになりました。
こういった伝説などを知ると、また違う感覚・視点で捉えることができますよね。
二人の魂がきっと恩徳寺の結びイブキには宿っているのでしょう
愛のパワーがこの不思議に絡み合うイブキを造り出したのですね~。
愛し合っているお二人様、機会がありましたら是非ご恩徳寺へ行かれて深い愛のパワーを感じてみてくださいね。
以上
菊地が お伝えいたしました