一 右大久保村之内付野と申ハ、此所ニ東福寺と申寺有、本尊薬師如来ニて御座候処ニ、古ヘ海中より此所へ漂着し給ふにより着野村と申習し候処ニ、いつ比よりか文字違付野と書申候事(『地下上申』豊浦郡神田下村)
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは、薄曇りからの晴れ。ドライブ日和です!
本日2023年3月10日、ついにホテル西長門リゾートがリニューアルオープン!
道の駅ほうほくから約10分、全室オーシャンビューの、角島大橋に一番近いリゾートホテルです。
今回のリニューアルで、美しい自然という最高の絵画を贅沢に楽しめる露天風呂付プレミアムルームや、海辺でピクニックをするように気楽に楽しくお食事できるビュッフェレストランが登場。絶景を眺めながら、よりリゾート感あふれるステイを!
さて、この西長門リゾートホテルがある、山口県下関市豊北町(ほうほくちょう)神田(かんだ)附野(つくの)。ホテル西長門リゾートの開業は1978(昭和53)年ですが、附野海岸は白砂青松の地で、昭和30年代からキャンプ場としてにぎわっていたとか。
一 右(みぎ)大久保村(おおくぼむら)之内、付野(つくの)と申(もうす)ハ、此所(このところ)ニ東福寺(とうふくじ)と申(もうす)寺有(あり)、本尊(ほんぞん)薬師如来(やくしにょらい)ニて御座候(ござそうろう)処(ところ)ニ、古ヘ(いにしへ/いにしえ)海中より此所(このところ)へ漂着し給ふ(たまふ/たもう)により着野村(つくのむら)と申習(もうしならわ)し候(そうろう)処ニ、いつ比(ごろ)よりか文字違(もじちがい)付野(つくの)と書申候(かきもうしそうろう)事(『地下上申』豊浦郡神田下村)
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右の(一覧の中の)大久保村のうちの「付野(つくの)」という地名は、ここに東福寺という名の寺があり、本尊は薬師如来でいらっしゃいます。その昔、(この本尊が)海中より漂着なされたことから「着野村」と呼びならわしていましたが、いつの間にか文字を違えて「付野」と書くようになったとのことです。
今回の冒頭は江戸時代、18世紀の地誌『地下上申(じげじょうしん)』から。豊浦郡神田下村の項にある附野(つくの)の地名由来です。現在では「附野」と書きますが、昔は「着野」「付野」といろんな書き方をしていました。
神田村は、江戸時代には上・中・下の三つに分かれていました。明治以降、豊北町時代の小学校区では、神田上村は矢玉(やたま)村と合併して神玉(かみたま)校区となり、神田中村と神田下村で神田校区となっていました。
でも、同じ小学校区でも、神田上と矢玉は郵便番号が違います。別の村だったころの名残です。豊北町の小学校も統合が進み、令和の現代、豊北小学校ひとつだけとなっています。
現在は東山寺(とうざんじ)となっている東福寺は、もともと真言宗寺院でした。ご本尊の薬師如来は眼病に聞くと名高く、「附野薬師(つくのやくし)」と呼ばれます。
由来によると、この薬師如来像は、弘法大師が入唐留学の船中、一刀三礼で自作したものとされます。帰国の時に持ち帰り、北国へ回る旅に出た折、この沖で嵐に遭い、船が沈みそうになりました。
しかし、薬師如来のお告げにより、弘法大師はここの岸から上陸して俵石(たわらいし)に鎮座、側に一寺を建立しました。こうして薬師如来像は、東福寺の本尊となりました。
その後、江戸時代に宗派が浄土宗となり、明治以後は東山寺と改称して、現在にいたります。本尊薬師如来は13年に一度の御開帳(ごかいちょう)でしたが、1898(明治31)年より7ヶ年ごととなっています。前回の御開帳は昨年(2022年)だったので、次回は2029年かな。
昔は門前で附野薬師の験をかついだ「やくしせんべい」を売っており、「目のくもり やがてはれゆく つくの寺 これぞやくしの 一ふしぎかな」と焼いてありました。残念ながら今はありませんが、道の駅ほうほくでは、地元のさまざまなおせんべいを販売中。ぜひ味わってみてください(^O^)/
◆ホテル西長門リゾート公式HP↓