令和七年の浜出祭に行きました!
六年始めて土居濱に神幸の典を挙ぐ。爾後その費用は地頭領主の支弁にして、其の祭礼は本村及び神田村にて擔任し、恒例怠ることなく今に至る。(「厳島神社社伝」/内山薫『山口県郷土史』)

浜出祭「鰤切」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
こんにちは。山田です。今朝の道の駅ほうほくは快晴、お花見ドライブに最適♪

JR特牛駅の桜並木 2025年4月8日 山口県下関市豊北町神田
昨日、道の駅ほうほくから車で約5分、JR特牛駅の桜を見に行くと、そろそろ散り始め。花びらが風に乗ってはらはらと舞い落ちるさまを、見ることができました。ああ日本の美…🌸

JR特牛駅の桜並木 2025年4月8日 山口県下関市豊北町神田
4月6日、七年に一度の大祭典「浜出祭(はまいでさい)」が斎行されました。今回は簡略化で、行列は大部分をバスで移動、行列の参加者も数少なくなりましたが、晴天のもと、桜が満開の、素晴らしいお祭りでした!

浜出祭「田耕神社発輿祭」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
浜出祭は田耕地区の田耕神社と、神玉地区の神功皇后神社、ふたつの神社の合同祭礼。ふたつの神社からふたつ、お神輿が出ます。朝10時、田耕神社では発輿祭(はつよさい)が行われました。田耕神社に合祀されている、厳島神社のお神輿の出発の儀式です。
幟がはためく田耕神社の境内には、時代衣装に身を包んだ行列の参加者が並んでいました。本来は、「将家太夫(しょうがだゆう)」「太刀将家(たちしょうが)」といった、子役が多いのですが、今回は花神子(はなみこ)と幣持(へいもち)役だけでした。

浜出祭「田耕行列出立」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
お神輿を中心とした行列は、馬もいないので、伝御(おとな)役もふくめて全員が徒歩。それでもやはり、紋付の羽織袴や烏帽子に白い水干の神輿守がたくさんいると、華やぎます。旗には厳島神社の神紋「三ツ盛亀甲花剣菱」、山伏の吹く法螺貝(ほらがい)や、太鼓や鐘も。

浜出祭「田耕行列出立」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
出立して長い参道を下り、三つの鳥居をくぐって粟野川を渡り、バス乗り場へ。青空のもと、たくさんの見物客とカメラマンが居ました。

浜出祭「奏者交換」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
13時からは、土井ヶ浜の弥生橋横の祭場で、「奏者交換(そうじゃこうかん)」の儀式。田耕と神玉、ふたつの陣屋(小屋)が向かい合ってしつらえられ、双方の神官や花神子、伝御長(おとながしら)や大年寄(おおどしより)が座ります。
この儀式はもともと、神玉地区に入るところ(堀切)で行われ、「堀切出合(ほりきりであい)」と呼ばれていました。「奏者(そうじゃ)」は、双方を行き来する使者のこと。

浜出祭「奏者交換」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
裃姿の使者が神官から神官へ、伝御長と大年寄の間で、派遣されあい、刀捌きをふくめた作法にのっとり、口上を述べます。行列が合流して土井ヶ浜へ向かうための申し合わせですが、それが儀式になっています。面白いですね!

浜出祭「土井ヶ浜祭場到着」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
ひとつになった行列は、ぐるりと回って国道191号に出て、鳥居から土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム駐車場に設けられた土井ヶ浜祭場へ向かいます。土井ヶ浜祭場では、神玉側の神功皇后神社から出たお神輿が待っています。
祭場には神玉地区によって三つの「座」がしつらえられており、メインになる神官座は別名「江尻座」、下手にある右と左の座は「岡林座」と「波原座」で、担当する地域の名がついています。右座と左座は、お祭りの度に担当が入れ替わるとか。

浜出祭「浜殿祭」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
15時、神官座での神事で、浜殿祭(はまどのさい)が始まります。「殿」はこの場合、建物や座席のこと。浜殿祭は浜出祭の別名ですが、一連の祭礼のうち土井ヶ浜に設けた座で行われる行事だけを指すことも。
まずは祓式や(はらえしき)や祝詞奏上(のりとそうじょう)など、通常のお祭りと同じですが、注目は神田神主(神功皇后神社宮司)による「蟇目(ひきめ)」。「鏑矢(かぶらや)」という笛のようなつくりになった矢を2本、南西と北西に射て、音をたてて邪気を払います。

浜出祭「蟇目」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
座席を変更する「菰敷(こもしき)」は、今回は円座の位置を変更するだけ。座を清める「奉幣(ほうへい)」は、神官ではない特定の家が行うことになっていて、古い祭事の名残でしょう。
ここでも奏者の交換があり、座と座の間で使者を派遣してこれから神事を行う申し合わせが行われます。「神子ノ舞」は神玉と田耕の花神子が主役ですが、踊るわけではなく座の中をぐるりと一周します。

浜出祭「奏者口上」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
「神酒三献(みきさんこん)」は諸役に対する神玉側のお酒の振舞いですが、田耕の女神と神玉の男神の、神様の結婚式の三々九度という考え方も。そして浜出祭のメイン「鰤切」!

浜出祭「鰤切(魚据)」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
漁村である神玉側が用意した、10kgにもなる大きな鰤が三尾、まな板の上にのって登場。「鰤切」は、三つの座、それぞれで行われます。神玉側の「魚据(うおすえ)」役が見物客に披露し、田耕側の「鰤切(ぶりきり)」役の前に置きます。

浜出祭「鰤切」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
神玉側の添えた包丁と箸は小さいので、田耕側でこっそり用意していた自前の大きな金箸と包丁にすり替えます。魚には手を触れずに突き立てた箸をつかんで鰤を高く掲げ、「これ見たか」と声をあげて、まな板を包丁の背で三度打ちます。ここが一番の見どころ、大きな拍手が沸き起こりました☆

浜出祭「鰤切(披露)」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
まな板に下ろした鰤は三つ切りにされ、頭は立てて副役が懐紙を加えさせます。切り終わると神玉側の魚据役がまな板ごと持ち上げ、きちんと切れている姿を見物客に披露。
鰤は座の脇に設けられた囲い「垣内(かがち)」に運ばれ、酒粕で和えて御膳に盛られ、「膳据(ぜんすえ)」として、座の諸役に振る舞われます。いわゆる直会。以前は見物客にも振る舞われていましたが、衛生上の問題からか今回はありませんでした。

浜出祭「餅まき」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
来賓挨拶と祝盃、主催者あいさつを経て、山口県民の必須行事・餅まき。その後、両神社へお神輿がご帰還して、浜出祭が終了しました。関係者のみなさま、お疲れさまでした!

浜出祭「直会」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
六年始めて土居濱に神幸の典を挙ぐ。爾後その費用は地頭領主の支弁にして、其の祭礼は本村及び神田村にて擔任し、恒例怠ることなく今に至る。(「厳島神社社伝」/内山薫『山口県郷土史』)
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六年始めて土居濱(どいがはま)に神幸(しんこう)の典を挙ぐ。爾後(じご)その費用は地頭(じとう)領主の支弁にして、其の祭礼は本村及び神田村にて擔任(たんにん)し、恒例怠ることなく今に至る。(「厳島神社社伝」/内山薫『山口県郷土史』)
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弘安6(1283)年、初めて土井ヶ浜に神様がお出ましになる祭りを行った。以後その費用は領主の勤めとなり、祭礼はここ田耕村と神田村が担当して、常に行われるようになって今まで続いている。

浜出祭「神子ノ舞」 2025年4月6日 山口県下関市豊北町
今回の冒頭は、(昭和6(1931)年に小学校における郷土教育の教材としての意味合いを込めて発行された『山口県郷土史』から。浜出祭のはじまりは約750年前とされることが多いですが、その根拠のひとつとなる伝説です。
浜出祭は、山側の田耕地区と海側の神玉地区のお祭りですが、神玉地区はもともと神田上(かんだかみ)村と矢玉‘やたま)村がひとつになった地区。上(かみ)があるからには下もあり、中神田村と神田下村が現在の神田地区にあたります。
少しずつかたちを変えながらも、古くから続いているお祭りです。七年後も、そして未来へと、残したいですね!

道の駅ほうほく 山口県下関市豊北町
今回は行列の大部分がバス移動でしたが、浜出祭はもともと田耕地区から土井ヶ浜まで、約15kmを歩くお祭り。江戸時代に衣装なので、足元は草鞋(わらじ)です。大変ですね…。
道の駅ほうほくには、藁で編んだ草鞋ではありませんが、昔ながらの布ぞうりがあります。ぜひどうぞ☆